神野 直彦 著『人間回復の経済学』を読んで
さらに安価な労働力をもとめて、さらに優遇された税制をもとめて、工場は海外にフライトしていく。
現在の新自由主義的経済において、人間は自己の幸福を築くために経済に従事するのではなく、さらなる生産性と効率化を追求した生産を維持するがために、人間は経済に従事させられていると言わざるを得ない。人間が先か、経済が先か。オートメーション化された工場のなかで、早朝にベルトコンベアが動き出す。人は機械のリズムに合わせ働き始めるのだ。
古典派経済学から、現代の市場原理主義経済に続く、経済学の本流は、基本的には変化していない。新自由主義的経済ないし、自己利益のみを追求した利己主義的経済は、結局のところ行き詰まりをみせている。
目先の利益と労働生産性に踊らされ、工場を海外の安価な労動力のもとにフライトさせた。工場があった街の経済は衰退をたどる。商店街の活気はなくなり、地域経済は枯れ始める。
かつて、アダム・スミスは『道徳情操論』や『国富論』において、こう説いている。経済は市場の「見えざる手」によって統合と合理化が進められ、社会の繁栄と調和を達成すると。新自由主義的経済、ないし利己主義的経済、また市場原理主義的経済と名を変え品を変え、半ば優等生のように経済学の流行を享受してきた日本は、豊かになったのだろうか。
安価な労働力を求め工場は中国やベトナムに移る。地域経済など知らん顔でいられるだろうか。その中国の安価な労働力で作った商品を、疲弊した地域社会の住民は買えるだろうか。


神野 直彦 著『人間回復の経済学』